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「市町村合併を巡る市民と行政―市民の声は届いたか―」990124Y小林綾香

 

1 国から地方へ

 2001年5月1日、埼玉県与野・大宮・浦和の三市は長い経緯を経てさいたま市へと合併した。それは地方分権一括法に準じたものであり、政令指定都市と移行する大きな目標への一歩である。また地方行政に変換していく中の先駆的役割を担うものと位置付けられている。

 市町村合併とはどういうものか。大元となる「地方分権一括法」は地方分権を推進する為に法律改正を一括形式で行なうもので、平成11年7月8日に国会で成立し、7月16日に交付された。平成12年4月から既に施行されている。

 @国と地方自治体の役割分担の原則、A機関委任事務制度の廃止、B国の関与の見直し、C権限委譲の推進、D必置規制の見直し、E都道府県と市町村の改革、F地方自治体の行政体制の確立の七項目を含み、地方の問題は地方で処理すべきという地方分権の進展へ向けた内容となっている。また「県」ではなく「市町村」に対し決定権を持たせる動きであり、それに伴い市町村の持つ責任と権限は大幅に拡大する。その器を確立する為の三市合併という趣旨が強い。

 また、財政の圧迫が合併しなければならないという状況を作り出している。現在の国債は645兆円、GNPの1.3倍の額であり、地方行政の礎である地方交付税や補助金の確保が困難であるのだ。課税自主権の行使で地方自治の財政を確保する市町村もあるが、増税では市民の批判を買い支持が得られない。その為歳出の見直しが必須であり、合併という手段が選ばれることになる。一つにまとまれば財政や予算が拡大し、小さな市町村では出来ない大きな事業が出来るようになる。例えば水道事業やごみ処理などは近隣の市町村が協力した方が効果的であるといえる。どの市町村でも役所や役場の仕事は同じなので、合併して一つにくくれば職員を減らし税金を節約も可能というわけである。

その他、少子高齢化の進行、生活圏の広域化、多様化・高度化する住民のニーズに応えていく為に広域的な市町村の連体だけでは限界があるとし、市町村合併の計画は全国的に広がっている。明治時代には全国で16000もの市町村があったが、合併が進み現在では役約3200に減少している。政府は合併を推進する市町村に対し補助金を出して、最終的には市町村数を300ぐらいに縮小する方針である。

 

2 三市の合併の経緯

(1)   三市合併の過程

 三市の合併は、昭和二年から浮上しては立ち消えるという経緯を持った問題であったが、地方自治の推進と国の要望に応えて1900年代から本格化した。以下にまとめる。

1994年 5月16日

浦和市、大宮市、与野市の市議会議員による

「政令指定都市問題等3市議員連絡協議会」設立

1995年 3月20日

浦和市議会で「合併促進決議」可決

1995年 3月27日

大宮市議会で「合併促進決議」可決

1995年 4月1日

3市に政令指定都市推進室設置

1995年 6月30日

与野市議会で「合併促進決議」可決

1997年 3月

石原前内閣官房副長官、大宮で演説

「新都心が別々の自治体にまたがる事は避けてもらいたい」

1997年 7月7日

3市市議会において「任意の合併促進協議会設置決議」可決

1997年 12月18日

「第1回浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会」開催

2000年 4月10日

3市市議会で「合併協議会の設置」議決

2000年 4月29日

「第1回浦和市・大宮市・与野市合併協議会」(法定協議会)開催    

2000年 9月5日

「第6回浦和市・大宮市・与野市合併協議会」開催 合併調印式開催

2000年 9月25日

3市市議会で、廃置分合に関する4議案議決

正式に三市市議会で合併決定

2000年 10月10日

3市長、県知事へ配置分合の正式申請を行う

出典:『視察資料』与野市役所政策企画部 政令指定都市推進室

                 (但し年号を西暦に改めた)(http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/2000jointo/gappei.htmから引用)

 

(2)   三市合併の理由と目的

 まず、三市の行政区と生活圏の不一致が挙げられている。例として与野駅は浦和に立っている駅であり、南与野駅は浦和市民の利用が高い駅であることや、小・中学の学区の不一致がある。しかし、これは第1の合併の理由として挙げるには浅いように思える。勿論、例えば小さな与野市が今のままでは解決できない問題、ごみ処理場の敷地が確保できないなどの問題が増加している為、否定はできない。

 次に、この合併は業務核都市への移行を目指したものであることが挙げられる。1985年、政府が首都圏改造計画を決定し、浦和・大宮を業務核都市として位置付け、肥大化する都市圏機能のうち必ずしも都心に置く必要のない機能を移転する為の受け皿づくりを担わせたのであった。さいたま市は合併により人口102万人の全国10番目の大都市となった。三市は東京の中心部から電車で1時間以内で通勤通学に便利な地域であり、また埼玉県には人口20万人から40万人ぐらいの都市が多い為、「商業や行政の中心となる大都市をつくるべき」との声はかねてからあった。それを受け国と三市は1兆3500億の投資をし、大企業をこの地に誘導する為、わざと政府機能と業務機能を集積させた。

最後に、さいたま新都心駅の存在がある。1992年の与野・大宮・浦和市にまたがる大宮操車場跡をJR東日本・埼玉県・住宅都市整備公団・三市が共同開発して「さいたま新都心駅」にするという計画が出された。前述した通り、石原前内閣官房副長官が「新都心が別々の自治体にまたがる事は避けてもらいたい」と演説し、さいたま新都心完成までに合併の結論を急がせた。また政府の10省17機関の移転をさいたま新都心に決めた際にも、「この地域を一つの自治体にするという県の約束が前提」と強調していた。これに見られるように、さいたま新都心は三市合併において大きな比重を占めている。しかし、この駅の利用状況はスーパーアリーナで何か催し物をしたときには人手があるが、通常の駅利用客は現在少なく、増えていない。そして政府の一八機関が引越ししてきたが、民間の部分になると未だに出足が鈍く官庁街そのものが閑散として寂しい状況である。また建設の折、周辺住民の工事による騒音問題、地盤沈下の問題が取りだたされてきた。

 

3 市民の声は届いたか

(1)   住民投票―上尾市とさいたま市―

 全国で初めて行なわれたさいたま市と上尾市の合併の可否を問う住民投票は、合併反対62,382、賛成44,700(投票率64.48%)で反対が多数を占めた。合併を三市とするか四市一町とするか、最終的な決定は三市の合併後にまで持ち越されていた。日本共産党は@住民本位のまちづくりは情報公開と住民参加が基本であり,小さい自治体ほど市民の要望を実現しやすいこと、A今回の合併が国の指導による大型開発を進めるための財源作りであること、B上尾市の文化や歴史、運動で築いてきた独自の施策や制度がなくなってしまうこと、などの問題を指摘し、住みよいまちは合併ではなく上尾市民の手で作ろうと呼びかけてきた(http://www.mars.sphere.ne.jp/tamachan-ageo/page22.html)。そして結果的に住民投票でその議論に終止符が打たれ、議論は終焉した。

 しかし三市が合併する経緯の中で、住民投票によって市民の意向を聞く企ては行なわれなかった。三市の日本共産党議員団が住民投票の実施を求める要請を行なった際に、「国がさいたま新都心を作る前提条件として三市合併があるのに、今更なにを言うのか」と三市のうちのある市長が本音を漏らしたという話に見られる通り、住民投票や意向調査は一切拒否されつづけた。合併推進協議会は推進派のみで構成され、新市の名称、事務事業の一元化から新市建設の基本方針まで決定されたのだった。

 市民の合併の賛成・反対の割合はどの団体が、どの時期に調査したかによってデータの取り扱いや回答の傾向が異なる為一概には述べられないが、「実行委員会ニュース・2000年11月5日NO.4」を見ると16%が合併の必要あり、54%が必要なしという結果が得られている。また20%が分からないと答え、情報があまりに少なく合併によって生活環境がどう変わっていくかの不安を反映させた結果となった。この中で、大部分の市民が住民投票によって合併を進めるか決めて欲しいという回答を得たにも関わらず、住民投票は行なわれなかった。

 

(2)   市民と行政の隔たり

 行政は今回の合併について、シンポジウムやディナーショーを設けたり住民アンケートを募ったりなどPR活動を行なってきた。それが積極的であったかは別として、それが的確に効果的に行なわれたかというと疑問が残る。

 ひとつ、情報は常に一方的であることが挙げられる。市民がこの問題に触れる機会があるとすれば、市が交付する広報しかないだろう。それは決定した事項を箇条書きで述べるものであり、市民が意見を述べる機会は既に失われている。またまだ決定していない事でも既に決定しているという感情を意図的に持たせていた。市民活動団体が各家庭のポストに折りこむチラシには、「諦めるな、まだ決まっているわけではない」という記述が見られはしたが、合併反対を謳う市民団体の情報も特殊なルートで受信するものであるから、勿論市民は知らないし信憑性も低い。

 しかし情報の偏りが著しいことは、勿論市民も承知している。だからこそ情報を公開して欲しいと求めている。住民投票や意向調査をして欲しいと望みはするが、そうする上で合併への知識が少なく、そうした情報がなければ市民も判断が出来ない。その地点で持っている情報を出来る限り公開し最終的には住民投票や意向調査に持ちこみたいと市民も行政も空想してはいたが、結局中途半端に終わってしまった感は否めない。

ふたつ、合併は自分の生活環境を変えうる重大な問題だが、それに対し市民の関心は決して高いとは言えなかった。シンポジウムや懇話会への参加状況はやはり高齢者が多く、また開催者側も参加人数の少なさに驚くほどだという。とくに20・30代の市民はパンフレットにも目を通さず、記事を載せても読んでももらえない。その市民の姿勢は行政に「PR活動は出来る限りしているのに、市民が関心を持ってくれない」といざと言うときの為の非常階段を設けさせてしまっている。確かに修学旅行のコースを誰か一人に押し付けて考えさせておきながら、当日文句を言い出す手前勝手な学生とこの場合の市民は全く重なる。行政側に感情的な反感が生まれるのは当然であろう。しかし、市民の無関心には、情報の不透明さ、情報公開に行政の消極的姿勢に原因がある事も一理ある。「どうせ働きかけても市民は関心が低いのだ」とあからさまな諦念の姿勢が更に市民の行政不信を助長している。

みっつ、「参考までに意見は聞くが聞いておくだけ」で、住民の意見が政策にはまったく反映されていない実態が今まででも明らかであることだ。行政水準を一元化する上でよりよいものを残していこうとする動きを、行政は見てこなかった。与野市のごみ対策はいい評価を得ていて、ごみ袋の有料化を図ったりホームページでその処理の仕方を公開したりなど他の二市と比べ熱心に取り組んでいた。しかしそれは合併により有耶無耶となって、有料ごみ袋は廃止に近い休止、新市が今までの様にごみ問題に取り組むかは疑問なところで、それについて話し合われるかも分からなくなってしまった。また浦和と与野市の学校給食は自校方式であるが、大宮市は業務委託の冷たい箱弁方式である。合併を機に自校方式に変換されていくなら歓迎されるだろうが、その様な動きはない。合併して三市のよいところを組み合せようとするが、行政の関心は目下大規模開発にばかりいっている。市民にとって身近な事、ごみ袋や学校給食すら改善できないのに、住民サービスをどうやって向上させるのか。そんな思いを市民に抱かせてしまった。

 

行政の考える市民の概念と市民自らが持っている市民の概念は違っていることを理解しなければならない。行政は選挙の結果を見て市民の同意は得られたと確信している。議員は市民の代表であり、議員はその地域の市民を縮小したものであると捉えている。しかし市民は市民を集合体とは考えず、その中に個を認めている。国から地方への転換が進められる中、市民と地方行政の連帯に求められるものは大きい。しかし、互いに歩み寄ることがなくして、地方行政は行えないのではないだろうか。

 

 

 

参考HP(ページ)

http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/2000jointo/gappei.htm

小さな与野市のよい政策(ごみ問題)から三市合併の考察を試みたレポート。市民と行政の隙間を考えるきっかけになった。

http://www.gikai.ageo.saitama.jp/index.html

上尾市議会のHP。参考にしたのはhttp://www.gikai.ageo.saitama.jp/teirei0012/t1212-ode.html

上尾市の合併に参加するか・住民投票をおこなうかで質疑応答を行っている。かなり長いが、読んでいくと行政側は〜していきたいとの方向を示すだけで何の具体策も出していない事がわかる。

http://www.pref.saitama.jp/A02/BW00/gappei/tebiki/

さいたま市の合併手引書。埼玉県地方分権室の一角。これから全国的に展開される市町村合併の先駆的役割を担うには、情報公開は必須。